変化と危機感

 皆様、こんにちは、与沢です。今日は「変化」について考えてみたいと思います。Covid19がやってきたのは昨年の2月頃でしたね。もう1年半が経過したわけですが、皆さまにとってこの期間での一番大きな変化と言えば、何だったでしょうか?

たとえば、

  • 人と会う機会が減った。
  • 外食が減り、デリバリーが増えた。
  • 通販をよく利用するようになった。
  • 海外旅行には行けなくなった。
  • 将来に対し漠然と不安を覚えるようになった。

多様な回答があると思います。今日は、私が思う変化とそこから感じた危機意識について述べていきます。

私が特に顕著であると思う変化は、

 インターネット空間の質が格段に向上した

ということです。

 この1年半、かつてないほど多くの人がインターネット空間を日常的に利用してきたはずです。だからこそ、大きな変化にはかえって気づき難い可能性があります。たとえば、もし、2020年2月→2021年8月に突然ワープすることができれば、より一層、違いを感じやすいのですが、逆に、日々少しずつ変化していくその流れの内側にいると、変化の規模を体感し難いということです。おかしな例えですが、私が痩せる前の頃の話です。2017年当時、久しぶりに会う友人にはよく「また太った?」と聞かれることが多かったのですが、一方で、日々を共に過ごしていた奥さんはと言えば、私が体重を増加させ続けていることに気が付けなかった、と言っています。ところが、先日、昔の写真を見て「ドバイの時は、こんなに太ってたんだね。私はいつも一緒にいるから麻痺してたんだ。これはひどい(笑)」と冷笑されました。今目の前にいる私と過去の写真を点と点で見ると当時の在り方が激しく見える。それと似ています(笑)。目の前の変化の進行形に晒されていると、日々の変化の誤差には気付き難くなります。そこで、間を飛ばして、昔のある時点と今日の時点とでの差を捉えてみると、大きく変わったことが分かるということです。この考えを利用して、大昔と今日とを比較するのは有益で、私は、たいてい10年前と今とを比較したりしています。たとえば、日本にいた頃(28歳)と海外にいる今(38歳)とで比較する。自分のルールが定まったことで生き方が明確になりました。何が変り(事象)、どうしてそう変わったのか(原因)を考える。変化からは発見があります。今回の話はこの応用です。直近対比ではありますが、「コロナ禍が始まった頃」と「今」とを自分なりに比較してみました。もちろん、私の体感の域を超えない部分もあって、反論や異論、別の意見も承知の上です。ただ、あえて伝わるように大胆に大雑把に書きます。皆様も、各自、私とは違う方法で、過去と今とを比較することで今を生きるヒントを得続けて下さい。

 既に上で書いた変化を要約すれば「コロナ禍でWEBの品質が飛躍的に高まった」ということです。量が増えたことはどうでもよくて、生存条件として求められている品質が格段に上がったことが問題意識にあります。

これをさらに3つに分けてみたいと思います。

  1. ネット上で自分が見るコンテンツの質が上がっている(たとえば、動画、ブログ、音声、ニュース記事など)
  2. 技術力が格段に高まっている(ここ一年の仮想通貨Defiの領域を見て)
  3. 拡散の速度がとんでもなく速くなった(新しい人「ニューフェイス」を発見することが多くなっている)

ステイホーム、リモートワーク、ソーシャルディスタンスなどの各種行動規制がかかったことで人々がインターネット空間に大挙したわけですから、上記3つはもちろん当然と言えば当然の帰結です。

 コンテンツの質が上がったのは、コロナ禍で見る人が増えたことで、アクセスが取れる人はより収益力が高まり、これまで以上にコストを掛けられるようになったからと仮定できますし、技術力が格段に高まったのは、WEBへの投資対効果がさらに大きくなることが見込まれて、お金が集まり、結果、ますます優秀な人材が集まったからと仮定できます。拡散の速度が早くなったのも、コロナ禍で時間が空いて拡散するユーザー数の母体が増えたからだと仮定できます。したがって、どれも当たり前の帰結ではあるのです。ただ、この当たり前のことから何を導くかが重要です。この3つはコロナ禍がなくても「いずれは来ていたであろう変化」なのかもしれません。ただ、急激な変化は苦痛と犠牲を伴うものです。苦痛と犠牲が大きかった分、人々は真剣に考え直しました。これまでの非効率や無駄を疑い、脇を固めました。私も同様で、コロナ禍の変化に危機感を覚え、以下を踏まえ動いていく必要があると感じています。したがって、ここから下が、特にお伝えしたい内容です。

 まず、コンテンツの質が底上げされた以上、片手間のコンテンツや手抜きのコンテンツは、今後、一切通用しない、という結論です。たとえば、YouTubeなどを始めるにしても、相当な覚悟を持って、手間暇を惜しまず、試行錯誤と仮説検証を前提に、微細に至り圧倒的な熱量と工夫で、生涯やる気概の継続時間が求められています。そうでなれば、比較されて自然淘汰で消滅するだけだからです。なお、人間は、成果を出すほどに次の行動の動機を強化できる、という自己強化スパイラルの性質を持っています。そのため、客観的な数字を出せる人はそれ自体が継続と加速の動機となり、やる気の好循環を自己増殖させていく一方で、結果を出せない人は、やる気が出ない中で鞭を打ってやり続けるか、あるいは、非効率と無力感を感じて辞めていくのかを選ぶことになります。つまり、強いコンテンツをあげられる企業なり人が、ユーザーの視線を独占しがちになっていく、という話です。これは勝者がより強化・拡大されることを意味しています。当然、商流が背後に付随しているため、お金を余計に沢山使うことができます。もちろん、コンテンツはお金をかければかけるほどよいものになるとは必ずしも思えません。ただ、コストを掛けようと思えば掛けられるのは、やはり強いです。ちなみに、インターネットの世界というのはそもそもジャンルが分散されています。ロングテールが棲息できる空間です。ですから、今後もジャンルごとに細かくセグメントが分かれて併存・分散はするでしょう。その意味では、ニッチは生き続けるわけです。ただ、そうしたニッチの中でも少数の強者がアクセスを大きく集める、という構図になっています。

 次に、技術力が格段に高まっているということの真意は、実は、開発者サイドではなく、ユーザーサイドにこそ高いリテラシーが求められているという問題意識です。それに対応できていないユーザー達は既に置いていかれているということ。これは私自身も全く例外ではなくて、このままあぐらをかいてぼけっとしていたら取り残される、と確信しました。最近、私が、20代とかの若者は優秀だね、と言ったりしているのは、一部の天才・秀才を指して言っていたわけではなくて、新しいものにどんどん順応し適応していく若者を総称して、そのように発言していました。これまでも今後も、開発者とユーザーとの間には技術格差があるのは当然です。つまり、それ自体は何ら問題ではなくて、ここで私が言っている「技術力」というのは、ユーザー側の使用技術(リテラシー)に着眼している話です。ユーザーサイドに求められている、各種サービスや知恵を使いこなすリテラリーの水準が極端に高くなった、ということです。使い手の格差とも言えます。これまでは提供側がマスアダプションさせるために「いかに簡単にするか」は、常態的なテーマでしたが、最近は、それを乗り越えていけるユーザーだけで経済が成立しています。提供側が、簡単にするのを待っている前に、天才的なユーザー達はらくらくとその壁を乗り越えていってユーザー自ら創造活動に関与しているのです。文明の利器を使うためのリテラシー格差が確実に生まれていて、その分断が起き始めていると思います。

 最後に、拡散の速度が劇的に速くなったことについて。たとえば、これは炎上事例のみならず、何らか、「平均から著しく乖離した異常値」を叩き出せば、高速で知れ渡る、という意味があります。この異常値は良い意味の時も、悪い意味の時もあります。たとえば、偏差値で言えば80を超えるような実例や人物などです。逆に、偏差値が30を下回るような下方乖離した事象のこともあります。諸刃の剣ではありますが、言い換えると、異常値を叩き出せる人にとっては簡単に拡散されるようになりました。それを望むかどうかに関わらず、短期間に効率よく名を売ることができます。もはや広告費など不要です。かつては有名になるかどうかと言えば、マスメディアに出るかどうかのほぼ一択でしたが、これは全く別の新しい経路です。どちらかと言えば、マスメディアはネットを後から追いかけるかどうかを判断しているようなところがあります。ネットの方が原理的に早いです。逆に、悪事も千里を走るため、言動には注意し、緊張感も高まっています。いずれにしても、力を蓄えた人は、ただ存在するだけでプレゼンスを拡張されますから、自分がやるのは異常値を叩き出すだけでよくなり、極めて効率的な時代になりました。

 以上の3つの特徴が、コロナ前と今とを比較して、私が感じた最大の変化です。

その上で、私が導いたのは「結局、ここも格差に行き着いている」という問題意識です。

  1. コンテンツが強い企業や個人にアクセスが偏り、
  2. サイバー空間を活用する技術(リテラシー)のある高度ユーザー達だけがより多くのチャンスに遭遇していて、
  3. 異常値を叩き出すような逸材変人に耳目が集まる。

インターネットの世界は、もっとも極端な資本主義の姿だと思います。まさに弱肉強食の世界です。いえむしろ、ただの弱肉強食ならば、多くの強者が共存できるイメージでまだ良いのですが、インターネットの世界は極端なパレートの法則になりやすいのが問題です。たとえば、1対99の法則。1の小集団が得るリターンは99という大部分である一方、多数派の99が得るリターンは1を分け合うだけになる、という偏りです。世界的富豪たちと一般の私達の富の所有分布が大きく偏っていることに似ています。資本市場では、株を大量に持つ創業者が異次元の富豪になるわけですが、そのフラクタルとして、資本主義的なインターネットにも、極端なアンバランスが内在している、ということです。

 このような認識がある中で、私達としては、何ができるのか、ということが問題になります。もっとも大切なのは、基準値の認識や行動条件の設定だと思っています。

  1. 中途半端なコンテンツでは今後はもうコンテンツにはならない(質の向上と質とは何かの問いに時間を使う)。
  2. テクノロジーや新しい着想を使いこなすリテラシー(情報収集・選別・解釈の能力なども含む)を高めなければ、多くの機会ロスを起こす。そこで不確実なものにこそ時間の大半を費やすこと。
  3. 異常値を叩きだせるかどうかという高い分水嶺があり、そのためには、領域を絞って何か一つに専念することが効果的。

さらに、応用として仮想通貨界隈を見ていて私が思い付いた以下の視点もおまけで書いておきます。

  • ブランドは一層価値を高めている(伝統的ブランドがNFTに参加し存在感を見せているのを見て)。
  • ゲーム性が成長の鍵(Play To Earnのコンセプトに触れて)。
  • ユーザーが作る経済、コミュニティ経済を大切にしていく(ミーム現象を見て)。

このようなレベルの高い時代には、「我以外、皆師匠」のスタンスが効率的です。好きな人だけ見ておくとか、嫌いだから学ばない、のような膠着した姿勢では、置いていかれます。少なくとも私自身は、この1年半で人生最大の危機感を感じました。それ以前は実際のところ、危機感など持ったことはほとんどありません。自分は通用すると楽観視してきました。ところが、今は、何もしなければほぼ間違いなく通用しないと確信しています。

そこで、

  • 自分の年齢など全く意に介さず、若い人や新しくて不確実な業界からどんどん学ぶ。
  • 当然、老若男女関係なく、嫌いな人も含めて異常値を叩き出している他者から貪欲に学ばせてもらう。
  • その一方で、自分にできる当り前のことだけは全力でやっていく。

こうしてブログを書いているのも自分に出来る足元にある当たり前なことだからです。地に足の着かない行動は無意味です。

皆様が、この記事から少しでも「危機感」を感じていただけたら、それは嬉しいことです。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

与沢翼

なお、以下↓の動画でも同じ内容をより分かりやすくお伝えしたつもりです。

メンバーシップでは2日に1回、動画をお届けしております。

本日は、意思決定の技術 です。 → https://www.youtube.com/watch?v=fHFNKXx_wjE